思考の外側へ

『だから』という接続詞には気を付けた方がいいよ。

と言われたのは、私がその接続詞を使ったからではなくて

ある本について議論をしていた時のことだ。

 

『だから』という接続詞には気を付けた方がいいよ。

その後には肯定文しか来ない。

つまり、押し付けに近い状態になっている、と。

 

 

私の事を言われたのではないのに、

この話しを聞いたとき、体と心がギュッと萎縮した。

昔は多用していたな。もしかしたら今も気が付かずに…。

 

 

肯定文というのはやっかいだ。

私は「自分が肯定だと思っている内容の文章」の省略だと思っている。

 

そう思えるようになったのはほんのここ数カ月だ。

それまでは肯定否定を繰り返していたように思う。

今は、肯定も否定もこの世には存在していないのではないかと思う。

私にとっての肯定が相手にとっての肯定とは限らない。

 

どうして自分が肯定・否定をするようになったのか。

私の場合は自分を守るためだった。

逆説的にとらえるならば、どうやら私は正体不明なものに恐怖を感じるようだ。

自分が見聞きしたも、自分が受け入れたことがないことは怖い。

自分が今まで生きてきた経験・思い込みの枠以外のコトに恐怖を感じる。

それはまさしく、自分の思考の中でだけで生きてきたのだな、と今はしみじみ思う。

 

 

 

あれだけ、生まれ変わりたい・成長したいと思ってきたのに、ちょっと笑っちゃう。

ずっと自分に縛られているなと感じていて

自分の思考の枠から飛び出したいと思っていたのに。

 

 

 

『だから』と言いたくなった時にこそ、飲み込んで、相手の話を聞いてみよう。

ワクワクしながら。

 

 

そこはきっと新しい自分が待っている。

そこにあるものこそ自分の思考の外側だと、今は思っている。

人はみなストーリーを綴ってる

自分の伝えたい事、きちんと言葉にならなくて、伝わらなくてモヤモヤした経験はありませんか? ライターの私が一番得意とする事は、言葉にしきれなき深い想いや、記憶の中に埋まっている宝物を聞く事です。 丁寧に聞かせていただくことで、あなたの深い想いを掘り起こし、文字としてお伝えするお手伝いをしています。 このブログでは、お話しを聞かせていただいたことや日々の気づきを中心に書いています。

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